福島県の北部に位置する伊達市は、独眼竜政宗(どくがんりゅうまさむね)で有名な「伊達家」の発祥地です。1189年、源頼朝(よりとも)率いる鎌倉方と奥州藤原氏率いる平泉方の奥州合戦に、常陸国(ひたちのくに:現茨城県)の豪族念西(ねんさい)とその子らは、鎌倉方として参戦しました。念西はこのときの戦功によって伊達郡を賜り、常陸国から移住して伊達を称することとなります。やがて、17代当主政宗は、東北一の大名として天下に名をとどろかせました。


 歴史に触れると、固定概念に固執することなく、事実から客観性を学び取る力がつきます。鎌倉時代初頭の奥州合戦を中心に、平安から鎌倉期の武士の様子を中高生や一般の方々にも、わかりやすく紹介しながら歴史探訪してゆきます。皆さんも兵(つわもの)どもになった気分で、800年前を思い浮かべながら伊達路を探索してみませんか。何か新しい発見があるかもw

 なお、本稿の著作権は「あぶくま食品梶vが有しておりますので、無断転用を禁じます。
 
〈第1話〉
奥州藤原氏一族佐藤氏の里、飯坂(いいざか)を散策

 平安時代の1086年、奥州藤原初代の清衡(きよひら)が岩手県平泉(ひらいずみ)に都城を構え、1124年に中尊寺金色堂(ちゅうそんじこんじきどう)が完成した。3代秀衡(ひでひら)の頃には、開拓した私有地(荘園)を広げ、東北地方の豪族を一つにまとめて豊かな国を造り上げていた。

 その頃、藤原一門で信夫の庄司(しのぶのしょうじ)とも呼ばれた佐藤基治(もとはる)は、大鳥城(おおとり)を居城として福島県全域を治めていた。飯坂医王寺(いおうじ)、天王寺(てんのうじ)など多くの壮麗な寺社を融し、まるで平泉のようであった。

 1180年、源義経(よしつね)が平泉の秀衡のもとから源平合戦に旗揚げした折、佐藤基治は子の継信(つぐのぶ)と忠信(ただのぶ)を遣わし、義経は約80騎で出陣した。

 継信は、1185年香川県高松市の「屋島(やしま)の戦い」で、義経を射ようとする矢の楯となって討ち死にした。忠信は、後に不和となった頼朝に追われる義経一行が、京都堀川の館で苦境に陥った際、義経を装い敵を引きつけ、その間に一行を脱出させるのに成功したが、我が身は命を落とした。

 その後、弁慶(べんけい)らと共に奥州に入った義経は、平泉に向かう途中に医王寺へ立ち寄り、遺髪(いはつ:かたみの髪)を埋めて追悼の法要を営んだという。

 源氏にゆかりもない佐藤一族が、なぜ義経に対しここまで忠節だったのでしょうか?

「義経が平泉を立つ際、帰京後に佐藤一門の大将(軍の統率者で、一門の統率者とは違う)として迎える約束があったのでは。」「基治の娘波の戸が、義経の側室(そくしつ:正室の対義語。当時は一夫多妻制で妻の家へ男性が通っていた)であったのでは。」と言われております。

皆さんは、どのように推測いたしますか。
 
おことわり:ご紹介の歴史についてはそれぞれ数多くの説がございます。本企画は、古書や諸説を基に、本稿作者がもっとも有力と判断した内容を自説も交えて記したものです。
■大鳥城址
飯坂温泉街西1kmの丸山(館山)にあり、1157年藤原秀衡が佐藤基冶に築かせたとされる頂上を削平した山城。現在は、麓から頂上まで40分程度のハイキングコースになっており、飯坂温泉が一望できる。
城址には何か有るという訳ではないが、頂上は平坦な広場で芝生も整備されており、ピクニックに良い場所である。
■飯坂
福島市北部に位置する東北屈指の温泉郷。2km北西には天王寺温泉、穴原温泉もある。
現在の大温泉郷は、摺上川(すりかみがわ)渓谷の段丘上に旅館が連なるが、これは1944年の大火がきっかけとなり出来上がった。それまでは、飯坂元湯と言う共同浴場に旅館と民家が隣接していた。
■医王寺
飯坂温泉の南西2kmに位置し、826年空海の開基と伝えられ、佐藤一族の菩提寺である。山門を入るとすぐ右手に本堂があり、1904年に焼失した後1915年再建した。奥の院までは老杉の並木が続いて風情があり、奥の院薬師堂の傍らには、継信・忠信兄弟をはじめとする一族の墓が立ち並んでいる。
また、義経や弁慶ゆかりの品々も保存されている。
 

<第2話>
奥州藤原の佐藤一門と源頼朝軍の合戦「石那坂(いしなざか)の戦い」

第2話は、鎌倉方の公式記録である「吾妻鏡(あずまかがみ)」をもとに、時代監修しながら再現してゆきます。吾妻鏡は、軍奉行として参加した二階堂行政(にかいどうゆきまさ)らの書と見られ、徳川家康が愛読し政治を行う上で参考にしたと言われます。(注:月日は旧暦のため、現在の暦に直すときは1月半足してください)

1187年10月に、戦も政治も上手で、東北地方を一つにまとめていた奥州藤原3代目の秀衡(ひでひら)が没した。以降、頼朝は4代目泰衡(やすひら)に対し、さまざまな圧力を加えてゆく。とうとう泰衡は耐え切れず、1189年4月、岩手県平泉北部の衣川(ころもがわ)館にいた義経を襲撃し自害へ追い込んだ。酒に漬けられたその首は、新田高平(にったたかひら)により6月に鎌倉へ届けられた。不和になった義経とはいえ、頼朝も源平合戦で義経と共に戦った武将も、亡骸(なきがら)を見て涙したという。

泰衡は、義経の首を差し出せば何とかなるだろうと浅はかに考えていたが、1189年7月19日(現9月3日)、頼朝は、義経殺害の制裁を口実に奥州へ向け鎌倉を出兵。埼玉の武将畠山重忠(はたけやましげただ)を先陣とした頼朝本隊は東山道(地図中央)を、千葉常胤(ちばつねたね)を大将とした茨城・千葉の武士団は東海道(太平洋岸)を、比企能員(ひきよしかず)を大将とした群馬の武士団は北陸道(日本海岸)を北上した。
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*頼朝の奥州出兵路

頼朝は、味方になった豪族に土地の支配権を保障し(本領安堵:ほんりょうあんど)、敵を破り戦果をあげた者には論功行賞(ろんこうこうしょう:ほうび)として敵の領地を分配してきたので(新恩給与:しんおんきゅうよ)、鎌倉殿と呼ばれ関東武士団の棟梁(とうりょう)たる地位にあった。そのため、多くの関東武士を途中加えながら、中央を北上する頼朝本隊は17万、三方全軍で28万にも膨れ上がったと言われるが、明らかにこの数は誇張されたものである。

当時の日本の人口は1千万人ほど。さらに、西国中心で東国はまだまだ田舎。したがって、豪族で500騎、自作農民で戦時に騎馬武者になる郎党(ろうとう)が5万騎、小作農民で、戦時には、なぎなたを持ち騎馬武者を助ける歩兵係、馬の世話係、食料や衣服の運搬係、工作係などをした下人(げにん)や所従(しょじゅう)が16万。実際、戦をするのは騎馬武者なので、戦力は5万程度だろう。

7月29日、頼朝軍は白河の関を無血で越え、佐藤氏の領地福島県に侵入した。奈良時代には、蝦夷(えぞ)の南下を防ぐため、数キロに及ぶ高い土塁(どるい)と堀によってめぐらされていたが、関守(せきもり)もおらずこの頃には有名無実になっていた。

8月7日夕刻、頼朝軍は伊達郡国見町の藤田宿に着いた。真夜中に宿の近くへ落雷があり、縁起が悪いと皆々心配した。
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*藤田宿:東北道国見IC(地図左側)から南東の伊達郡国見町商店街(ピンク色部)。

翌8日午前4時半頃に頼朝は起床、軍を指揮するため5時半頃に宿から近くの源宗山(げんそうざん)へ移動した。
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*源宗山:後の藤田城。国見町観月台(かんげつだい)公園の北部にある高台で、現在は古い町営住宅と小さな公園がある。

同日午前6時頃、頼朝は、泰衡の異母兄弟国衡(いぼきょうだいくにひら)がこもる阿津賀志山要塞(あつかしやまようさい)の攻撃とは別に、石那坂砦(いしなざかとりで)【解説1】に向けても出撃させた。
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*阿津賀志山:旧藤田宿と後(北側)に見える阿津賀志山

石那坂砦のまわりには堀が掘られ、阿武隈川から水を引いて水中に柵を設けていた。ここには、佐藤一門の首長で飯坂の佐藤基治(もとはる)、泰衡の叔父(おじ)で会津の河辺高綱(かわべたかつな)、基治の叔父で福島市五十辺(いがらべ:信夫山の東腹)の伊賀良目高重(いがらめたかしげ)など、佐藤一門の名将が立てこもっていた。【解説2】

常陸国(ひたちのくに:現茨城県)の念西(ねんさい:別名伊佐時長(いさときなが))と、その4人息子、為宗(ためむね)、為重(ためしげ)、資綱(すけつな)、為家(ためいえ)らは下人に変装し、そっと鎧兜(よろいかぶと)を荷車の秣(まぐさ:牛馬のえさとなる干草)の中に隠して、伊達郡沢原辺りから一番乗りをはたした。隊列の武士たちは、手柄を立てようと先を争っていたが、下人は敵将を討ち取っても恩賞を受けられないので油断していた。

先着した伊佐一族は、頼朝から隠密行動を指示されており、立てこもる佐藤基治と伊賀良目高重を城から脱出させ、荷車の秣の中にかくまった(推測した挿入文)【解説3、4】。

伊佐一族は、すぐさま着替えて鏑矢(かぶらや:丸い笛がついていて音が出る弓矢で、合戦開始の合図に用いる)を放ち、「石那坂の戦い」の火ぶたが切られた。激しい弓矢の射合いで始まり、やがて刀で切り合いとなったが、佐藤一門は少数にもかかわらず兵揃い(つわものぞろい)で激しい抵抗にあった。

伊佐為重、資綱、為家は傷を負ってしまうが、佐藤基治は生きてお連れし、一門の武将18人の首級(しゅきゅう:討ち取った首)は持ち帰った。ただちに国見町の陣で首実検(くびじっけん:戦場で討ちとった敵武将の首の身元を大将が判定し戦功を詮議すること)が行われ、陣の北に位置する阿津賀志山の経ケ岡(きょうがおか)にさらされた。
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*経ケ岡:国見町大木戸の阿津賀志山東腹。ここの東山道は阿津賀志山山頂まで長い坂が続き、当時の景観が残る数少ない場所である。
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*義経の腰掛け松:阿津賀志山南麓の国見町石母田(いしもだ)にある赤松の名木で「天下の三名松」の一つ。伝えによれば、義経が平泉へ行くときにこの地で休み、そばにあった松の木に腰掛けて休んだといわれる。1823年に修験者が松に巣を作った蜂を退治する為たき火をしたところ、松に燃え移り枯らしてしまった。村人はこれを惜しみ、良く似た赤松を譲りうけ2代目の松とした。初代松の一部は、お堂内に保護されている。

【解説1】
「石那坂の戦い」の日時は、阿津賀志山の戦いと時間的に並列関係にあり、8日午前とした。しかし、その場所は未だ特定できていない。
【解説2】
藤原泰衡は、1889年4月30日に義経を殺害してから義経派を排除したので、義経派であった佐藤基治や伊賀良目高重との関係は、当然険悪だったと思われる。8日の合戦で、藤原本隊と別行動をとったのもその証なのだろうか。
【解説3】
石那坂の戦いで佐藤一門は滅んだとされるが、佐藤基治は後日帰されたと吾妻鏡に記され、その後も飯坂に所領を得ていたことが判明している。また、伊賀良目高重の子孫は同じ館に居住し続け、やがて尾形氏を称するようになり、室町期に岩谷下観音(いわやしたかんのん)を作らせている。
【解説4】
基治の二人の子は義経の身代りとなって死んでおり、頼朝は基治に対して格別の思いがあったといわれる。さらに、基治が伊佐一族にみすみす生け捕られたとは考えにくく、自分の領地や一族を守るためには何でもした時代でもあり、頼朝と基治は、お互い通じあっていたとしてもおかしくない。

討ち取られて首がさらされたはずの佐藤基治は、なぜ生きていたのでしょう?

東山道阿津賀志山付近で800年前にタイムスリップしながら、皆さんも推測してみませんか。
 

<第3話>
石那坂砦(いしなざかとりで)の謎解きに挑戦

多くの歴史家が、石那坂砦の場所を探求しましたが未だ特定できていません。原点に戻って、古書吾妻鏡に記載されている多くのヒントをもとに、この謎解きに挑戦してみます。

第2話でも紹介した、石那坂砦に結び付く吾妻鏡の記述部は、
@石那坂砦では、8月8日に戦が始まり、同日中に武将は全て討ちとられて決着した
A伊佐(いさ)一族が荷車を引いて行けた
B砦には堀が掘られ、阿武隈川から水を引いていた
C佐藤一門の首長基治(もとはる)を始め、一門の名武将が入城していた
D伊達郡沢原が近くにあった
E石那坂の上にあった

さて、石那坂砦の解明につながるのか否か、それぞれ掘り下げてみよう。

@戦は8月8日早朝に始まり、遅くとも同日夕刻までに藤田宿へ戻ったことになる。戦闘時間が絞りきれず、距離を特定する材料に乏しい。

A荷車を引けるのは、5人の伊佐親子。さらに、戦歴に残らない下人も同伴した可能性は否定できず、距離や地質特定の材料につなげることが難しい。

B阿武隈川から堀まで水を引けるほど、川から距離は近かった。当時の阿武隈川は、大隈川(おおくまがわ)とも呼ばれており、平坦地で大きく蛇行し、福島市、伊達町、保原町(ほばらまち)、桑折町(こおりまち)での様相は、現在と全く違っていた。
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*旧阿武隈川:中央を流れるのが現在の阿武隈川。有色部は伊達町で、東部に河岸段丘(かがんだんきゅう)が残っている。東側の保原町との境界線にある緑色部は、旧阿武隈川の痕跡(こんせき)で、右上の桑折町との境界線にある緑色部は、三日月湖(みかづきこ)跡である。全国的に市町村の境界線上には旧流が数多く存在しており、その典型的な例である。

C佐藤一門の惣領(そうりょう:一門の統率者で嫡子がなる)基治を始め、一門の武将が入城したほど要になる場所であった。藤原本隊が控える阿津賀志山要塞(あつかしやまようさい:国見町阿津賀志山から南東部の阿武隈川まで約4kmにわたって防塁を設け、川の水を引いて築いた要塞)の弱点を補強した砦なのではないか。
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*阿津賀志山:現在は厚樫山とも書く。東北道国見ICと国見SEの間にある難所。写真は北側から撮影。
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*阿津賀志山防塁:阿津賀志山山麓には防塁跡が今でもくっきり残っている。

その弱点とは、からめて(迂回し背後に回る作戦)を受けることであり、標高600m級の山々が連なる西側より、東側の阿武隈川沿いを警戒したのだろう。この頃は干ばつ続きとされ、木の年輪調査でも、現在より気温が3度程高かったことが裏付けられている。
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*阿津賀志山の西側:標高600m級の険しい山々が連なる

D伊達郡は、10世紀前半の律令再編の際に、「因達(いだて)」として信夫郡(しのぶぐん)から分割された地域である。当時のエリアは、阿武隈川西部が、伊達町、桑折町、国見町、福島市北西部。阿武隈川東部が、保原町、梁川町(やながわまち)、霊山町(りょうぜんまち)、月館町(つきたてまち)、川俣町(かわまたまち)、飯野町(いいのまち)である。「沢原」の地名は、当時の伊達郡内には実在しない。

旧阿武隈川は、伊達町、保原町、桑折町で大きくうねり、幾度となく氾濫して水害が絶えなかった。そこで、現水路のような直線的な姿に改修してきたのであり、もし「沢原」地区が河床になってしまったなら、地図上からも消えたはず。

糸口は、前後、上中下、東西南北、内外、辺、向、新、大小などが、近在の地名に付けられることも多く、なごりが残っていないか探ってみた。すると、頼朝軍が陣を置いた藤田宿から南東約2kmの現阿武隈川西岸域に、「北沢」と「前原」地区が隣接し存在している。偶然なのか否か、現在調査中である。
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*左が北沢、前原地区。右は、前原地区の東を流れる阿武隈川で、渡し舟があったらしい。

E福島県北地域で、今でも「石那坂」の地名が残っているのは、伊達市保原町富沢の「石名坂」と福島市平石の東北本線上り「石那坂トンネル」の2箇所である。前者は、写真のような奥深い山間部で、後者は伊達郡から遠く、両者とも候補から消え去る。
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*保原町富沢:石名坂から見下ろした景色。想像以上の山間部である。

「石那坂」は改名されたのか、時代とともに消滅したのか。はたまた地名でなく隠語なのだろうか。「石那坂」とは、「石が多い坂」と「石が美しい坂」の二つの意味がある。

また、「坂の上」を歴史家たちは「坂の上部」と訳しているが、吾妻鏡の著者は「北」の意味でも用いており、「石那坂の北」とも考えられる。

加えて、古書「伊達正統世次考(だてせいとうせいじこう)」には、
『1189年冬、念西(ねんさい)は、頼朝から伊達郡を所領として賜り、91年冬までには地頭として、現茨城県西部の筑西市(ちくせいし)から移住し入部。念西は、伊達朝宗(あさむね)として伊達家初代当主となり、居城を保原町の高子が岡(たかこがおか)とした。北側は阿武隈川が流れ水を引き入れ、丘陵部には土塁が築かれ要害であった。』と記され、入部したてのよそ者が、これだけの大事業を短期に成し得たとは考え難い。

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*高子が岡城跡:地図から旧阿武隈川から水を引き入れていた様子がうかがえる。江戸中期の文人で、高子の景勝地「高子二十境(たかこにじゅっきょう)」の創始者、熊坂覇陵定昭(くまさかはりょうさだあき)家の墓がある。
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*高子二十境:二十境の一つで、高子が岡城跡北側の丹露盤(たんろばん)。付近には景観のよい岩や石が数多く存在している。

これらの材料から判断すると、石那坂砦は現在の高子が岡城跡に存在していたのではなかろうか。

「高子」は元来「孝子」と書く。石那坂砦に立てこもった佐藤一門の武将は、一族を守るために惣領を逃がし、残る武将は首をとられたという孝行な子たちなのである。この出来事が、地名の由来なのかもしれない。

さらに、高子が岡城跡から南西500mには高子沼があり、農業用ため池として利用されてきた。言い伝えでは、平安期から盛んに金が掘られ、後世の伊達政宗(まさむね)は、秀吉によりこの地を召し上げられた際、金鉱脈を隠すために水を引き入れて沼としたらしい。1962年に沼底の調査を行った際、精錬道具と金銀鉱石砕が発見され、伝えはあながち作り話でなかったと証明された。

「石那=美しい石=金」とすれば、吾妻鏡に記された「石那坂の上の陣」とは、「金山の北にある砦」とも解釈可能である。
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*高子沼:以前は一帯が遊園地となり賑わっていたが、廃業した今はひっそりとして、釣り糸を垂らす人影が少々あるのみ。

ところで、石那坂砦はいったいどこにあったのでしょう?

皆さんも伊達路を散策しながら、800年前を想像してみませんか。
 
 

<第4話>
奥州藤原軍が築いた大要塞(ようさい)


1189年7月19日(現9月3日)、頼朝は、義経殺害の制裁を口実に、奥州へ向け鎌倉を出兵しますが、その時すでに、奥州藤原軍は大要塞を築き上げていました。
大要塞の一部こそ、福島県伊達郡国見町の阿津賀志山(あつかしやま)防塁(ぼうるい)であり、現在も所々に面影を見ることができます。
第4話は、阿津賀志山大要塞を探ってみました。

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*後方が阿津賀志山、左手前が防塁跡
*阿津賀志山は、東北自動車道を遮(さえぎ)るように張り出した標高289mの山で、国見ICを北上すると、国見SEの手前で大きな左カーブを描く西側の山

1187年10月、頼朝も恐れる奥州藤原三代目の秀衡(ひでひら)が没した際、「我が身の死を伏せて、義経を将軍として国衡(くにひら)、泰衡(やすひら)、義経の三人が一味となり、頼朝の攻撃に備えるように」と言い残したのである。

その遺言に従い、翌年の農閑期(のうかんき)である9月からの数ヶ月間に、地元民延べ40万人を擁して大要塞を築き上げた。加えて、奥州北部(一戸、二戸などの、戸の付く地域)や福島県相馬地区では、馬の飼育や調教が盛んに行なわれており、それらの馬を運搬用として多数動員したと思われる。

防塁の規模は、阿津賀志山山腹から南東の阿武隈川(あぶくまがわ)までの全長約4kmであり、防塁沿いに柵も築いた。幅15mの堀には、阿武隈川に注ぐ沢や、阿武隈川の一部をせき止めて水を引き、浅い所で深さ1.5m、深い所は2.8mにもなった。加えて、阿武隈川付近の湿地帯を上手に利用し、この地点より北上を阻止しようとするものであった。

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以下の画像は、国見町の資料館にある模型だが、実際は内濠と外濠に、水が引かれていた。
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阿津賀志山山腹には、前線の砦(とりで)を築いた。合戦時は、金剛別当秀綱(こんごうべっとうひでつな)が、ここで前線を指揮し、東山道を北上してくる頼朝本隊の様子が手に取るように解った。
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*阿津賀志山山腹から藤田方面の景色

貝田の南方に、本陣の砦を築き、合戦時は、大将軍国衡(くにひら)がここで指揮した。ここからは、防塁全体を見渡すことができた。
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*現在の貝田宿

巨大な頼朝本隊を真正面から迎えた大将軍国衡とは、どのような人物だったのだろうか。

国衡は、長男として身近な一族の娘から生まれたため、「母太郎」とも呼ばれていた。ところが、嫡男ながら後継者から外され、次男の泰衡(やすひら)が奥州藤原4代目を継いだ。(これには深い事情があるので、別の機会に詳しく解説しよう)
しかし、3代目秀衡(ひでひら)の遺言により、国衡は、秀衡の後妻の正室を妻に迎えた。当時の後家(ごけ)は、一族で高い発言力を持っていたため、後継者から外された国衡の立場を強化するものであった。

やがて、奥州藤原の大将軍に任ぜられるが、人望は厚く、大柄な体格で武勇に秀(ひい)でており、まさしく大将軍にふさわしいものであった。さらに、現在まで語り継がれている名馬、息切れせず汗もかかない「高楯黒(たかだてくろ)」に、騎乗していた者こそ国衡なのである。

この機会に、幾度か登場した街道「東山道」について、解説しておこう。

東山道は、京の都から諸地域へ伸びる七道の一つで、電信電話のない平安時代に、中央役人と地方役人の連絡を目的として整備された。京を出ると山道が続き、宮城県の多賀城国府を経て、平泉の鎮守府(ちんじゅふ:中央集権国家に与しようとしない蝦夷を鎮撫する拠点)に至る道と、出羽国府から秋田城に至る道があった。
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街道には、約16kmごとに駅家(うまや)を設け、駅長、駅子、駅馬が置かれた。中央と地方の連絡役である駅使は、駅馬を乗り継ぎ、駅家に宿泊しながら移動していた。このシステムを駅伝制という。

さて、駅周辺の農家から選ばれた駅長・駅子は、国司の監督のもと、駅家を維持管理していた。財源は支給されず、駅周辺の農家達で駅田を運営し、捻出しなければならなかった。駅長・駅子は、庸(よう)・調(ちょう)・雑徭(ぞうよう)を免除されていたが、財源が乏しいために、苦労が絶えなかった。

ところで、役人以外が街道を往来する際は、駅家を利用できなかった。そのため、野宿することが多く、時より寺社に宿泊する程度であった。現代と違い治安がとても悪く、通行人を襲う山賊(さんぞく)・追いはぎ・人さらいが至る所に出現したため、武装せずに旅することは自殺行為であった。

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さて、現代でも良く知られている奥州街道は、江戸時代初期に、江戸と東北諸藩を結ぶ参勤交代を主目的として整備されたもので、江戸から宇都宮までは、日光街道と共有していた。また、参勤交代は数百から数千人規模のため、この時期、宿場町が急速に発達した。やがて、治安が安定し始めるとともに商業が発達すると、商人が活発に移動し始めた。庶民の娯楽として、旅が流行り出したのは1800年頃からである。

 
 
<第5話>
戦場の兵(つわもの)ども


鎌倉時代の戦い方は、互いに名乗りあってから斬り合う「一騎打ち(いっきうち)」と、多くの方が学んだと思います。しかし近年の研究によると、世界トップ水準の弓矢の精度と威力による、騎馬兵同士の射合いが中心であることが解ってきました。
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第5話では、奥州合戦直前の1189年7月にタイムスリップし、その真実を確かめるとともに、兵士の実像を探ってみましょう。今回、取材に応じて頂けるのは、鎌倉殿(=源頼朝)の御家人で「結城朝光(ゆうき あさみつ)」殿、その郎党(ろうとう)で「保志泰三郎(ほし やすさぶろう)」殿、下人(げにん)で「岡田の善作」殿の御三方です。
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簡単に、結城殿のプロフィールを紹介しましょう。彼の正式名は、「藤原朝臣結城七郎朝光(ふじわらの あそん ゆうき しちろう あさみつ)」で、藤原が氏(うじ)、朝臣が姓(かばね)、結城が苗字(みょうじ:地名からとった名)、七郎が字(あざな:通称とも言い日常呼び合う名)、朝光が諱(いみな:目上の者のみが口にできる名)です。 1168年、小山政光(おやま まさみつ)の三男として、下野国(しものつけのくに:現栃木県)に生れました。実母が鎌倉殿の乳母(めのと:養育係)であったため、母の引き合わせで、鎌倉殿が烏帽子親(えぼしおや:元服の儀式の際、頭に冠を付ける者)となり1180年に元服(げんぷく:男子の成人式)。その後、鎌倉殿の御家人になりました。
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*当時の武士が被っていた「風折烏帽子(かざおりえぼし:左)」と「侍烏帽子(さむらいえぼし:中)」。元服以降、人前では必ず烏帽子(えぼし)を被るのが礼儀です。

では、これよりタイムスリップしますが、彼らには、異国からの旅人として接触します。そして、自動翻訳機を通しながら、会話してまいりましょう。

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

本日は、戦準備でお忙しい中、貴重な時間を頂きありがとうございます。日の本の国の戦について、いろいろお聞かせください。

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Q1. 結城殿の武士団は、どのような組織ですか?
私の本家は下野国小山荘(しものつけのくに おやましょう=現栃木県小山市)で、惣領(そうりょう)は、兄で長男の小山朝政(ともまさ)です。父の政光は既に隠居し、惣領の立場を長男に譲っていますが、家父長権より親権が強いので、まだまだ小山の実権を握っています。本家には有能な郎党が数多くおります。さらに、農作業、家事、馬の世話などをする、奴隷(どれい)身分の「下人(げにん)」や「所従(しょじゅう)」は数え切れません。

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「家の子」と呼ばれる分家は、私の他に、兄(次男)の長沼宗政(ながぬま むねまさ:長沼荘(現真岡市)長沼氏の祖)、弟の宇都宮頼綱(うつのみや よりつな)がおります。それぞれ、郎党と下人や所従を抱えて武士団を形成しています。ところで、弟は宇都宮氏の五代当主ですが、乳母が私の母であった縁で「猶子(ゆうし:苗字を変えずに他人の子と親子関係になること)」となり、兄弟になりました。弟の郎党には、紀清両党(きせいりょうとう)と呼ばれる益子正重(ましこ まさしげ)と芳賀高親(はが たかちか)がおり、宇都宮は東国最強の武士団と言われています。
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三男の私は、まだ小さな武士団です。1183年、木曽義仲(きそ よしなか)に通じる常陸国(ひたちのくに:現茨城県)の志田義広(しだ よしひろ:源頼朝のおじ)が、足利氏を加えた2万の兵で鎌倉殿に反旗を翻した際、私の本家や郎党の保志泰三郎などの戦功で阻止したのです。その「論功行賞(ろんこうこうしょう)」として、私は結城の地頭に任ぜられ、本家から独立して苗字を結城にしました。

保志泰三郎は、もともと父の郎党だったのですが、私が元服したときから私に仕えています。岡田の善作は、父が山賊(さんぞく)から購入した下人の子で、小さい頃から遊び相手だったために譲って頂きました。下人や所従は、売買・譲渡・相続の対象になる身分なのです。

Q2. なぜ、武士は命をかけてまで、戦うのでしょうか?


私たちは、先祖から受け継いだ土地と新たに開拓した土地は、命より大切な位置付けなのです。ですから、自分の命をかけても土地を守り抜き、子孫に継承して行きます。ちなみに、この土地のことを「一所懸命(いっしょけんめい)の地」と言います。

Q3.鎌倉殿のもとに、なぜ多くの武士団が集結したのでしょうか?

鎌倉殿の御家人になりますと、「一つ目、朝廷や権力者に恐れることなく、実質的な土地の所有者であると認めて、不法な税や労役から解放して頂けます。二つ目、争いごとが置きた場合、公平・公正に吟味して頂けます。三つ目、戦で手柄を挙げれば、敵の領地を新恩給与(しんおんきゅうよ)として頂けます。」このように、坂東武者の悩みを解決し、望みもかなえて頂ける鎌倉殿のもとに、多くの兵(つわもの)どもが集結したのです。
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Q4. 戦場に赴く兵士は、どのような方々でしょうか?

参戦する兵士は、戦時の際に従軍を強制されている、「伴類(ばんるい)」がほとんどです。その兵士は、騎馬兵と歩兵に大別できます。

騎馬兵は、武士団の一族と郎党からなる主力の兵士ですが、全体の一割程度にすぎません。郎党とは、下人や所従、時には農民や傭兵の中から、特に気が利いて力の強い者を取り立てた、一族の側近で伴類です。

歩兵は、下人や所従、農民、傭兵(ようへい)たちです。これらの者には、主人から食料と武具が支給されます。歩兵は、身分が低いので「雑兵(ぞうひょう)」とか、軽装で身軽に動き回るうえ、日常生活と同じく戦場でも裸足(はだし)が多いので、「足軽(あしがる)」とも言われます。
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そもそも下人や所従は、一族と郎党に仕えているので伴類です。戦いだけでなく、武具や兵糧の輸送、馬の口引きや馬の世話、料理などの仕事もさせられます。

農民は、領主の田畑で働いて報酬(=米)を得る傍ら、小規模開墾した私有地の「治田(はりた)」を耕したり、ニワトリ等の家畜の飼育や、山や川で収穫や狩猟をしながら暮らしています。ところが、東国は非常に治安が悪いので、自衛する必要があります。そこで、集落を形成し、武装もしています。保険として、武士から集落を警護してもらう代わりに、集落の収穫物を武士へ寄進し、事が起きれば武士に協力して参戦する契約を交わしています。そういう訳で、戦時の際には、村の規模に応じて従軍する人数が決まっているのです。他方、食料に困っている農民や、戦地で「分取り(ぶんどり)」という強奪目当ての農民は、本人の希望で志願します。

傭兵(ようへい)とは、臨時に雇われる兵です。近郷近在に戦の内容を触れ回ると、「山賊(さんぞく)」、「破落戸(ごろつき)」という住所不定無職の者、「辻冠者(つじかんじゃ)」という不良の輩(やから)、弁慶のような「乞食法師(こじきほうし)」という坊主のなりをした盗賊など、多くのならず者たちが、支給される食料や分取り目当てで集ってきます。
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また、我が国は男女同権ですから、勇ましい女性は戦場に赴きます。木曽義仲の側室「巴御前(ともえごぜん)」や、弓の名手「板額御前(ばんがくごぜん)」は有名です。

Q5.庭先では武具の手入れをしていますが、武具について説明お願いします。

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では、騎馬兵の攻撃用武具・防御用武具、歩兵の攻撃用武具・防御用武具に分類し、それぞれの者から説明させましょう。


@騎馬兵の攻撃用武具

騎馬兵が装備する攻撃用武具は、弓、太刀(たち)、腰刀(こしがたな)の3種です。

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弓は神聖なものであるため、騎馬兵のみが所持できます。長さは2m少々で、木に竹を張り合わせたものです。弦(げん)を張る前から反らせており、その反りと反対方向に、数人で反らせて弦を張ります。ですから、至近距離での威力は凄まじく、飛距離は約300mにもなります。

弓射は騎馬兵の主力攻撃であり、日頃から馬上で手綱(たづな)を離して射る訓練をしています。射る際は、「ゆがけ」という鹿のなめし皮で作った手袋をはめます。
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矢は、重さ50g、長さ70cmほどです。大まかまな構造は、弦が食い込む溝の「筈(はず)」、「羽根」、篠竹(しのたけ)で作られた棒部の「箆(の)」、先端の「矢尻(やじり)」です。
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矢には多くの種類がありますが、戦場に持参するものは3種類です。

1)鏑矢(かぶらや)
ビュウと音が出るもので、合戦開始の合図に使います。

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2)征矢(そや)
射合う時の矢です。矢尻は鉄製で、尖ったり扁平(へんぺい)な形をしています。羽根は三立羽(みたてば)で、大型鳥の羽を三枚矧(は)いで湾曲させたものです。そうすることで、矢がクルクル回転しながら飛ぶため、安定飛行するとともに飛距離が増します。征矢は、右旋回する「甲矢(はや)」と、左旋回する「乙矢(おとや)」があります。

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3)雁股矢(かりまたや)
武将を確実に射留める時だけ用いる矢です。雁股矢は四立羽(よたてば)で、鏑(かぶら)の先に雁股を付けています。矢尻には自分の生国と名を入れ、首が取れない場合でも、矢で致命傷を与えた証拠を残し、手柄が解るように工夫しています。ところで、征矢(そや)で武将を射留めても、流れ矢と見なされてしまい、手柄は認められないのですよ。

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矢は、「箙(えびら)」という箱に入れ、右腰に負います。箙には、鏑矢を1本、征矢の甲矢と乙矢を11本づつ、雁股矢を1本、合計24本を1セットにして入れるのが基本です。戦場では、補給係りの歩兵が、何セットもの矢を用意しています。また、騎馬兵は弦をグルグル巻きにした「弦巻(つるまき)」を携帯し、弦が切れた場合は歩兵に修理させます。

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*右:箙(えびら)、左:弦巻(つるまき)

太刀(たち)
太刀は、刃を下にして腰帯にぶら下げ携帯します。基本は、馬上から振り回す攻撃用武具のため、長さは1m以上で重心は手元にあり、反りが大きい作りです。

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太刀は接近戦用で、弓の次なる武器です。武将は大鎧(おおよろい)をまとっているので、斬りつける場所がありませんから、太刀での攻撃は、敵騎馬兵に打ちつけて落馬させたり、冑(かぶと)を落とす程度です。一方、防御としての用途もあり、騎乗中に歩兵から攻撃を受けた際は払いのけ、落馬した際は敵騎馬兵と対峙します。

腰刀(こしがたな)
腰刀は、腰帯に差している短刀です。騎馬兵の最終兵器で、敵兵と取っ組み合いになった際に使います。太刀は打撃用でしたが、腰刀は突き刺したり、斬ったりして敵を殺傷させるものです。また、敵兵の首を落とすときにも用います。

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馬は騎馬兵の移動手段ですが、混戦状態では、敵兵に馬ごと体当たりする「馬当て」という術を用いますので、攻撃用の武器とも言えます。

我が国の馬の体高(地面から肩の高さ)は、普通130cm前後のずんぐり体型ですが、名立たる武将が騎乗する名馬は150cmほどの大型馬です。後ろ脚(あし)が発達し、傾斜地の歩行を苦にしません。そして、前後の肢(あし:手足のこと)を片側ずつ左右交互に動かして速歩きするので上下動が非常に少なく、比較的温和な性格でもあり、とても騎乗しやすい馬です。

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馬には、「はみ(馬の口にくわえさせ騎乗者の意思を伝えるもの)」「手綱(たづな)」「あぶみ(騎乗時に足を乗せるもの)」「鞍(くら:馬の背に置く騎乗具)」などを装着します。また、「鞦(しりがい)」という綺麗な総(ふさ)を垂らし、優美を競い合います。騎馬兵は、巾着状の「貫(つらぬき)」という、毛皮製の「浅沓(あさぐつ)」を履いて騎乗します。

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A騎馬兵の防御用武具
弓矢の威力は凄まじく、至近距離から射られれば人体深くまで突き刺さってしまいます。全身を守るために、防具は、強靭(きょうじん)なものへと発達しました。

冑(かぶと)

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「冑(かぶと)」は頭部を保護するもので、ヘルメットの部分である「鉢(はち)」と、後頭部や首を保護する「しころ」からなり、重量は約5kgです。鉢は、鉄製の板金を鋲(びょう)で留め、サビを防止するために黒漆(うるし)を塗ります。鋲は星とも言うので、鋲留めした冑は「星冑(ほしかぶと)」と呼ばれています。

また、額の「眉庇(まびさし)」の左右に並ぶ、一対の角(つの)状の金属の立物(たてもの)を「鍬形(くわがた)」と言って、装飾用に付けています。

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実は、鉢(はち)の天辺には、5cmほどの穴が開いています。成人男性は、肩を越すぐらいまで伸ばした髪を一つにまとめており、これを「髻(もとどり)」と言います。戦で冑(かぶと)を被るときも、柔らかい烏帽子を被るため、冑から髻と烏帽子の出る小穴を設けており、戦闘ではこの部分を狙われることがあります。

大鎧(おおよろい)
「鎧(よろい)」は、牛革を叩いて固めた「なめし皮」や、鉄板の「小札(こざね)」に小さな穴を開けて縫い合わせたもので、縫い目に隙間が生じないよう工夫しています。

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大まかには、「胴、大袖(おおそで)、草摺(くさずり)」の3構造からなります。胴は、前後左側が一続きとなる平面状の一枚の板で、右胴部は別部品です。大袖は、左右の肩から垂らした楯状のもので、左袖は特に頑丈に作り、楯を持たない騎馬兵は敵矢をこの場所で弾き飛ばします。草摺は、大腿部(だいたいぶ)を守る腰から垂らしたものです。


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鎧は20kgほどですが、馬上では鞍(くら)に全重量が掛かるため、体への負担はありません。しかし落馬すると、自分の肩に重量が掛かってくるうえ、大腿部(だいたいぶ)を守る草摺(くさずり)が歩行の邪魔となり、動きが鈍いところを集中攻撃されます。ですから、騎馬兵にとって、落馬は死を意味するのです。

小具足(こぐそく)
鎧冑(よろいかぶと)以外を「小具足」と言います。腕部を守る「籠手(こて)」、大腿部を守る「はい楯」、足の脛(すね)を守る「脛当(すねあて)」があります。また、最近登場したのが、顔面を保護する「半首(はつぶり)」、のどを保護する「のど輪」です。

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B歩兵の攻撃用武具

印地(いんじ)
「印地」とは投石のことで、歩兵の主力攻撃になります。戦場には、「印地打ち」という投石の熟達者も連れて行きます。石は、9cmほどの平たい丸石の縁を欠いて尖らせたもので、手首に結んだ布に包み、振り回して投げます。村では、護身や小動物を仕留めるために、子供の頃から印地の練習をしているのです。

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長刀(ながなた)
「長刀」は「薙刀(なぎなた)」ともいい、敵騎馬兵に振り回し、馬の脚を払ったり、騎馬兵に打ちつけたりして、落馬させるための武具です。刃身は約30〜60cmで反(そ)りがあり、柄(つか:持つための部分)は約90〜180cmです。

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太刀(たち)
長刀を持たない歩兵の武具で、近くの敵騎馬兵に振り回して打ちつけます。

腰刀(こしがたな)
腰刀は突き刺したり斬ったりするもので、歩兵は我が身を守ったり作業用に使用します。

熊手(くまで)
「熊手」は、長い柄の先に、熊の手を模した鉄製の爪をつけたもので、騎馬兵を引っ掛けて落馬させます。(左下)
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斧(おの)、鉞(まさかり)
主に城郭や柵の破壊工作用ですが、騎馬兵への攻撃にも用います。(右上)


C歩兵の防御用武具
歩兵の防御用装備は、いたって軽装です。身分が低い雑兵ですが、戦場でも身だしなみとして烏帽子(えぼし)を必ず被ります。中には冑(かぶと)を被っている者もおりますが、戦場で拾ったものです。

腹巻(はらまき)
「腹巻」は、10kgほどの軽量な歩兵の鎧(よろい)です。胴体部は平面状の一枚の板で、右側で深く重ね合せて着用します。袖は「杏葉(ぎょうよう)」という鉄板を取り付け、大腿部(だいたいぶ)を守る草摺(くさずり)は、八間に分割し歩行し易くしています。最近、腹巻より簡素化した「腹当(はらあて)」という鎧(よろい)も登場し始めました。

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小具足(こぐそく)
歩兵も、籠手(こて)、脛当(すねあて)、半首(はつぶり)などを着用します。

楯(たて)
楯は敵矢の攻撃を防ぐ最重要武具で、握り手がある移動式の「手楯(てだて:左下)」と、地面に何枚も並べて連ねる固定式の「垣楯(かいだて:右下)」があります。

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Q6. 歩兵は、戦場でどのように戦うのでしょうか?
戦闘は騎馬兵同士で行いますから、歩兵の役目は、専ら主人である騎馬兵への手助けです。「楯(たて)を持ち、敵矢から防御する。投石をして、敵兵の攻撃を妨害する。敵騎馬兵を落馬させる。主人へ矢を補給する。主人の武具の修理や交換。主人が取った首の運搬。」などです。最近は、堀・土塁・柵・やぐらなどで防衛していることが多くなったため、破壊工作も重要な役目の一つです。また、食料である「兵糧(ひょうろう)」を現地調達するよう通告された戦では、協力しない村を焼き打ちし、強奪しなければいけません。

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歩兵は、戦に貢献しようと、総大将からの褒美(ほうび)は一切ありませんから、自分の命をかけてまで戦いません。ですから、歩兵同士が戦うことはしませんし、主人が取っ組み合いになったとしても、ただ応援しているだけです。

騎馬兵は、歩兵をいくら殺傷しても手柄にならないので、歩兵は比較的安全です。しかし、負ければ「人取り」に合って敵の奴隷にされ、やがては売られてしまうので、戦況が不利になってくると真っ先に逃げ出します。

Q7. 戦場は、なぜ事前に決まっているのでしょうか?
いよいよ戦わざるを得なくなった時、両軍から「牒(ちょう)の使い」という軍使を交換し、「牒」という果たし状を取り交わします。そして、合戦場所と開戦日時を事前に決定するのです。

Q8. 主力となる騎馬兵の戦い方について、教えてください。
では、一般的な野戦での戦い方について、順序立てて説明しましょう。

@ 開戦日時が決定してから戦までの間、スパイ行為によって敵の情報収集をします。

A 出陣すると、従来なら、騎馬兵は戦場を目指し「先陣争い」をします。しかし鎌倉殿は、奥州征伐を組織的に戦おうと、東山道本隊の先陣を、誠実で思いやりがある畠山殿に決めています。それでも抜け駆けする者は出てしまうでしょうね。

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先般の木曽義仲殿との戦では、「宇治川の先陣争い」が有名です。佐々木殿は、鎌倉殿から譲って頂いた名馬「生食(いけづき」で、先陣を切りました。

B 大きな戦では、総大将は戦場の地形に合った陣形を選択し、武士団の配置を指示します。陣形とは、唐国(=中国)の兵法「八陣」のことです。

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C いよいよ開戦時刻になると、「氏文(うじぶみ)読み」という「言葉戦(ことばいくさ)」が始まります。両軍の先陣の武将が一騎駆けし、大声で「やあやあ我こそは・・・」と、家柄の主張、戦をする正当性、敵の不義、自軍の強さを互いにののしり合います。最後に、降伏か和睦(わぼく)を相手に迫ります。

D 交渉が決裂すると、ビュウと音の出る「鏑矢(かぶらや)」を敵陣に打ち込みます。敵も打ち返してくると、いよいよ合戦開始です。これを「矢合わせ」と言いまして、これから正々堂々と戦をしようという儀式です。

E すぐさま、士気を鼓舞(こぶ)するために、「鬨(とき)の声」を三度上げます。先陣の者どもが、突撃前に武器を右手で掲げながら「エイ、エイ」と掛け声をすると、激励の意味で後陣が「オー」と強く呼応します。敵軍も、鬨(とき)をあわせてきます。

F 先陣では、いよいよ「楯突戦(たてついいくさ)」が始まります。両軍が距離を隔てて、楯の影から騎馬武者が空高く「遠弓(とおや)」を射掛け、歩兵は印地(いんじ)で攻撃します。そして、両軍は徐々に距離を縮めて行きます。

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G おじけづいた歩兵が逃走しだすと、楯の防御がなくなるので、騎馬武者も退却するしかありません。すると、陣は一気に崩れ、押し込まれて混戦状態になります。

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H こう着状態の時は、「馳組戦(はせくみいくさ)」になります。勇敢な騎馬武者が楯の前に進み出て、敵が楯の間から弓射するのを誘い出し、その機を狙って騎射する戦術です。「馬手射(めてしゃ)」という右方向への弓射が出来る者は、馬を右回りで輪を描いて乗り回す「輪乗り」をします。矢を連射出来る者は、前方射しながら敵に真っ直ぐ近づき、「押し捩り(もどり)」という後方射をしながら自陣に戻ってきます。

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中には、「寄れや、組まん」と「一騎打ち」を求める武将もおります。それに応える者が歩み寄ると、一騎打ちが始まります。その場合、周りの者は加勢しないのが武士の儀礼です。まず、名乗り合ってから、互いが馬で駆け寄って、すれ違いざまに弓射します。狙い所はのど元です。やがて弓を使い切ると、どちらかが落馬するまで「太刀打ち戦(たちうちせん)」になります。落馬すると、馬ごと体当たりする「馬当て」で攻撃し、弱ったところで取っ組み合いの「組打戦(くみうちせん)」へ持ち込みます。最後は敵を乗り伏せ、利き腕を足で抑えつけてから、腰刀をのど元に突き刺します。
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I 他方、先陣を取れなかった武士団も、手柄を挙げようと動き出します。敵陣の側面や、「からめ手」という後方からの奇襲攻撃を始め、あちらこちらで戦闘が起こります。

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混戦状態になると、一騎打ちの場面はほとんどなくなり、一族で協力し合う戦いになります。やがて、落馬兵が出始めますが、大鎧(おおよろい)は重いため、動きが鈍くなったところを目掛けて、弓射や馬当てで攻撃します。落馬兵も太刀を抜いて応戦しますが、徐々に体力を消耗し、手負いしてゆきます。最後は数人で抑えつけてから、冑(かぶと)を剥(は)ぎ、髻(もとどり)をつかんで頭を持ち上げ、のど元を斬ります。
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J 討ち取った「首級(しゅきゅう=しるし)」は、歩兵の長刀に頭髪で縛り付け、個人を特定する名を記した「首札(くびふだ)」を付けて凱旋(がいせん)します。

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Q9. 討ち取った首級は、どうするのでしょうか?
首級は泥や血で汚れていますから、汚れを落とし髪を整える「首化粧」をします。その後、総大将と軍監のもとで「首実験(くびじっけん)」が、陣などで行われます。そこでは、討ち取ったと主張する者に首を提出させ、場合によっては証人を伴い、御首級(みしるし)の身分・名・討ち取った経緯を検分した上で、軍監が記録してゆきます。後日、その記録をもとに論功行賞(ろんこうこうしょう)という褒美(ほうび)が決められます。
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首実験が終了すると、酒宴が催されます。首を門外に置き、敵の方角に向かって勝鬨(かちどき)を一度だけ上げます。総大将は、力強く「エイ、エイ」と掛け声し、軍勢一同は武器を掲げて「オー」と呼応します。その後、首を取った者は、首に酒を飲ませてから、敵軍に返却したり、陣の北方にさらして捨てたりします。

「本日は、戦間近のお忙しい中、時間を頂きありがとうございます。御武運を・・・」

では最後に、結城家の行く末を紹介し、第5話を締めくくりましょう。

奥州合戦で、結城朝光は奥州藤原軍武将・金剛別当秀綱(こんごうべっとうひでつな)を討ち取り、白河、岩瀬、名取の奥州三郡を与えられます。

奥州合戦から400年後の1590年、結城朝光の孫が祖となった現福島県白河市を本拠地とする白河結城家(=白河氏)は、小田原征伐に参陣しなかったため、豊臣秀吉の「奥州仕置き」で改易(かいえき)され消滅します。

本家結城家は、小田原征伐に参陣し、何とか大名として生き残りに成功します。さらに、大大名徳川氏の所領に隣接する弱小大名が、存続を図る手段として選択したのが、秀吉の養子になっていた徳川家康の次男秀康(ひでやす)を、結城家の養子に迎えることでした。

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後の関ヶ原の戦いで、上杉軍を会津に留める働きをした秀康は、異例の50万石加封で越前(現福井県)に移封されます。やがて、結城姓から松平姓(越前松平家)に改めたため、本家結城の家名も消滅してしまいます。

しかし、結城の名は、完全に消滅していなかったのです。白河結城家の末えいたちが、秋田藩と仙台藩で、藩士として江戸時代を立派に生き抜いたのです。

 
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