伊達路の散策・・・
福島県の北部に位置する伊達市は、独眼竜政宗(どくがんりゅうまさむね)で有名な「伊達家」の発祥地です。1189年、源頼朝(よりとも)率いる鎌倉方と奥州藤原氏率いる平泉方の奥州合戦に、常陸国(ひたちのくに:現茨城)の豪族念西(ねんさい)とその子らは、鎌倉方として参戦しました。念西はこのときの戦功によって伊達郡を賜り、常陸国から移住して伊達を称することとなります。やがて、17代当主政宗は、東北一の大名として天下に名をとどろかせました。
歴史に触れると、固定概念に固執することなく、事実から客観性を学び取る力がつきます。鎌倉時代初頭の奥州合戦を中心に、平安から鎌倉期の武士の様子を中高生や一般の方々にも、わかりやすく紹介しながら歴史探訪してゆきます。皆さんも兵(つわもの)どもになった気分で、800年前を思い浮かべながら伊達路を探索してみませんか。何か新しい発見があるかもw
なお、本稿の著作権は「あぶくま食品㈱」が有しておりますので、無断転用を禁じます
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〈第1話〉 奥州藤原氏一族佐藤氏の里、飯坂(いいざか)を散策
平安時代の1086年、奥州藤原初代の清衡(きよひら)が岩手県平泉(ひらいずみ)に都城を構え、1124年に中尊寺金色堂(ちゅうそんじこんじきどう)が完成した。3代秀衡(ひでひら)の頃には、開拓した私有地(荘園)を広げ、東北地方の豪族を一つにまとめて豊かな国を造り上げていた。
その頃、藤原一門で信夫の庄司(しのぶのしょうじ)とも呼ばれた佐藤基治(もとはる)は、大鳥城(おおとり)を居城として福島県全域を治めていた。飯坂は医王寺(いおうじ)、天王寺(てんのうじ)など多くの壮麗な寺社を融し、まるで平泉のようであった。
1180年、源義経(よしつね)が平泉の秀衡のもとから源平合戦に旗揚げした折、佐藤基治は子の継信(つぐのぶ)と忠信(ただのぶ)を遣わし、義経は約80騎で出陣した。
継信は、1185年香川県高松市の「屋島(やしま)の戦い」で、義経を射ようとする矢の楯となって討ち死にした。忠信は、後に不和となった頼朝に追われる義経一行が、京都堀川の館で苦境に陥った際、義経を装い敵を引きつけ、その間に一行を脱出させるのに成功したが、我が身は命を落とした。
その後、弁慶(べんけい)らと共に奥州に入った義経は、平泉に向かう途中に医王寺へ立ち寄り、遺髪(いはつ:かたみの髪)を埋めて追悼の法要を営んだという。
その頃、藤原一門で信夫の庄司(しのぶのしょうじ)とも呼ばれた佐藤基治(もとはる)は、大鳥城(おおとり)を居城として福島県全域を治めていた。飯坂は医王寺(いおうじ)、天王寺(てんのうじ)など多くの壮麗な寺社を融し、まるで平泉のようであった。
1180年、源義経(よしつね)が平泉の秀衡のもとから源平合戦に旗揚げした折、佐藤基治は子の継信(つぐのぶ)と忠信(ただのぶ)を遣わし、義経は約80騎で出陣した。
継信は、1185年香川県高松市の「屋島(やしま)の戦い」で、義経を射ようとする矢の楯となって討ち死にした。忠信は、後に不和となった頼朝に追われる義経一行が、京都堀川の館で苦境に陥った際、義経を装い敵を引きつけ、その間に一行を脱出させるのに成功したが、我が身は命を落とした。
その後、弁慶(べんけい)らと共に奥州に入った義経は、平泉に向かう途中に医王寺へ立ち寄り、遺髪(いはつ:かたみの髪)を埋めて追悼の法要を営んだという。
源氏にゆかりもない佐藤一族が、なぜ義経に対しここまで忠節だったのでしょうか?
「義経が平泉を立つ際、帰京後に佐藤一門の大将(軍の統率者で、一門の統率者とは違う)として迎える約束があったのでは。」「基治の娘波の戸が、義経の側室(そくしつ:正室の対義語。当時は一夫多妻制で妻の家へ男性が通っていた)であったのでは。」と言われております。
皆さんは、どのように推測いたしますか。
◆大鳥城址◆
飯坂温泉街西1kmの丸山(館山)にあり、1157年藤原秀衡が佐藤基冶に築かせたとされる頂上を削平した山城。現在は、麓から頂上まで40分程度のハイキングコースになっており、飯坂温泉が一望できる。
城址には何か有るという訳ではないが、頂上は平坦な広場で芝生も整備されており、ピクニックに良い場所である。
城址には何か有るという訳ではないが、頂上は平坦な広場で芝生も整備されており、ピクニックに良い場所である。
◆飯坂◆
福島市北部に位置する東北屈指の温泉郷。2km北西には天王寺温泉、穴原温泉もある。
現在の大温泉郷は、摺上川(すりかみがわ)渓谷の段丘上に旅館が連なるが、これは1944年の大火がきっかけとなり出来上がった。それまでは、飯坂元湯と言う共同浴場に旅館と民家が隣接していた
現在の大温泉郷は、摺上川(すりかみがわ)渓谷の段丘上に旅館が連なるが、これは1944年の大火がきっかけとなり出来上がった。それまでは、飯坂元湯と言う共同浴場に旅館と民家が隣接していた
◆医王寺◆
飯坂温泉の南西2kmに位置し、826年空海の開基と伝えられ、佐藤一族の菩提寺である。山門を入るとすぐ右手に本堂があり、1904年に焼失した後1915年再建した。奥の院までは老杉の並木が続いて風情があり、奥の院薬師堂の傍らには、継信・忠信兄弟をはじめとする一族の墓が立ち並んでいる。
また、義経や弁慶ゆかりの品々も保存されている。
また、義経や弁慶ゆかりの品々も保存されている。
<第2話> 奥州藤原の佐藤一門と源頼朝軍の合戦「石那坂(いしなざか)の戦い」
第2話は、鎌倉方の公式記録である「吾妻鏡(あずまかがみ)」をもとに、時代監修しながら再現してゆきます。吾妻鏡は、軍奉行として参加した二階堂行政(にかいどうゆきまさ)らの書と見られ、徳川家康が愛読し政治を行う上で参考にしたと言われます。(注:月日は旧暦のため、現在の暦に直すときは1月半足してください)
1187年10月に、戦も政治も上手で、東北地方を一つにまとめていた奥州藤原3代目の秀衡(ひでひら)が没した。以降、頼朝は4代目泰衡(やすひら)に対し、さまざまな圧力を加えてゆく。とうとう泰衡は耐え切れず、1189年4月、岩手県平泉北部の衣川(ころもがわ)館にいた義経を襲撃し自害へ追い込んだ。酒に漬けられたその首は、新田高平(にったたかひら)により6月に鎌倉へ届けられた。不和になった義経とはいえ、頼朝も源平合戦で義経と共に戦った武将も、亡骸(なきがら)を見て涙したという。
泰衡は、義経の首を差し出せば何とかなるだろうと浅はかに考えていたが、1189年7月19日(現9月3日)、頼朝は、義経殺害の制裁を口実に奥州へ向け鎌倉を出兵。埼玉の武将畠山重忠(はたけやましげただ)を先陣とした頼朝本隊は東山道(地図中央)を、千葉常胤(ちばつねたね)を大将とした茨城・千葉の武士団は東海道(太平洋岸)を、比企能員(ひきよしかず)を大将とした群馬の武士団は北陸道(日本海岸)を北上した。
1187年10月に、戦も政治も上手で、東北地方を一つにまとめていた奥州藤原3代目の秀衡(ひでひら)が没した。以降、頼朝は4代目泰衡(やすひら)に対し、さまざまな圧力を加えてゆく。とうとう泰衡は耐え切れず、1189年4月、岩手県平泉北部の衣川(ころもがわ)館にいた義経を襲撃し自害へ追い込んだ。酒に漬けられたその首は、新田高平(にったたかひら)により6月に鎌倉へ届けられた。不和になった義経とはいえ、頼朝も源平合戦で義経と共に戦った武将も、亡骸(なきがら)を見て涙したという。
泰衡は、義経の首を差し出せば何とかなるだろうと浅はかに考えていたが、1189年7月19日(現9月3日)、頼朝は、義経殺害の制裁を口実に奥州へ向け鎌倉を出兵。埼玉の武将畠山重忠(はたけやましげただ)を先陣とした頼朝本隊は東山道(地図中央)を、千葉常胤(ちばつねたね)を大将とした茨城・千葉の武士団は東海道(太平洋岸)を、比企能員(ひきよしかず)を大将とした群馬の武士団は北陸道(日本海岸)を北上した。
翌8日午前4時半頃に頼朝は起床、軍を指揮するため5時半頃に宿から近くの源宗山(げんそうざん)へ移動した
同日午前6時頃、頼朝は、泰衡の異母兄弟国衡(いぼきょうだいくにひら)がこもる阿津賀志山要塞(あつかしやまようさい)の攻撃とは別に、石那坂砦(いしなざかとりで)【解説1】に向けても出撃させた
石那坂砦のまわりには堀が掘られ、阿武隈川から水を引いて水中に柵を設けていた。ここには、佐藤一門の首長で飯坂の佐藤基治(もとはる)、泰衡の叔父(おじ)で会津の河辺高綱(かわべたかつな)、基治の叔父で福島市五十辺(いがらべ:信夫山の東腹)の伊賀良目高重(いがらめたかしげ)など、佐藤一門の名将が立てこもっていた。【解説2】
常陸国(ひたちのくに:現茨城県)の念西(ねんさい:別名伊佐時長(いさときなが))と、その4人息子、為宗(ためむね)、為重(ためしげ)、資綱(すけつな)、為家(ためいえ)らは下人に変装し、そっと鎧兜(よろいかぶと)を荷車の秣(まぐさ:牛馬のえさとなる干草)の中に隠して、伊達郡沢原辺りから一番乗りをはたした。隊列の武士たちは、
手柄を立てようと先を争っていたが、下人は敵将を討ち取っても恩賞を受けられないので油断していた。
先着した伊佐一族は、頼朝から隠密行動を指示されており、立てこもる佐藤基治と伊賀良目高重を城から脱出させ、荷車
の秣の中にかくまった(推測した挿入文)【解説3、4】。
伊佐一族は、すぐさま着替えて鏑矢(かぶらや:丸い笛がついていて音が出る弓矢で、合戦開始の合図に用いる)を放ち
、「石那坂の戦い」の火ぶたが切られた。激しい弓矢の射合いで始まり、やがて刀で切り合いとなったが、佐藤一門は少数にもかかわらず兵揃い(つわものぞろい)で激しい抵抗にあった。
伊佐為重、資綱、為家は傷を負ってしまうが、佐藤基治は生きてお連れし、一門の武将18人の首級(しゅきゅう:討ち取った首)は持ち帰った。ただちに国見町の陣で首実検(くびじっけん:戦場で討ちとった敵武将の首の身元を大将が判定し戦功を詮議すること)が行われ、陣の北に位置する阿津賀志山の経ケ岡(きょうがおか)にさらされた。
同日午前6時頃、頼朝は、泰衡の異母兄弟国衡(いぼきょうだいくにひら)がこもる阿津賀志山要塞(あつかしやまようさい)の攻撃とは別に、石那坂砦(いしなざかとりで)【解説1】に向けても出撃させた
石那坂砦のまわりには堀が掘られ、阿武隈川から水を引いて水中に柵を設けていた。ここには、佐藤一門の首長で飯坂の佐藤基治(もとはる)、泰衡の叔父(おじ)で会津の河辺高綱(かわべたかつな)、基治の叔父で福島市五十辺(いがらべ:信夫山の東腹)の伊賀良目高重(いがらめたかしげ)など、佐藤一門の名将が立てこもっていた。【解説2】
常陸国(ひたちのくに:現茨城県)の念西(ねんさい:別名伊佐時長(いさときなが))と、その4人息子、為宗(ためむね)、為重(ためしげ)、資綱(すけつな)、為家(ためいえ)らは下人に変装し、そっと鎧兜(よろいかぶと)を荷車の秣(まぐさ:牛馬のえさとなる干草)の中に隠して、伊達郡沢原辺りから一番乗りをはたした。隊列の武士たちは、
手柄を立てようと先を争っていたが、下人は敵将を討ち取っても恩賞を受けられないので油断していた。
先着した伊佐一族は、頼朝から隠密行動を指示されており、立てこもる佐藤基治と伊賀良目高重を城から脱出させ、荷車
の秣の中にかくまった(推測した挿入文)【解説3、4】。
伊佐一族は、すぐさま着替えて鏑矢(かぶらや:丸い笛がついていて音が出る弓矢で、合戦開始の合図に用いる)を放ち
、「石那坂の戦い」の火ぶたが切られた。激しい弓矢の射合いで始まり、やがて刀で切り合いとなったが、佐藤一門は少数にもかかわらず兵揃い(つわものぞろい)で激しい抵抗にあった。
伊佐為重、資綱、為家は傷を負ってしまうが、佐藤基治は生きてお連れし、一門の武将18人の首級(しゅきゅう:討ち取った首)は持ち帰った。ただちに国見町の陣で首実検(くびじっけん:戦場で討ちとった敵武将の首の身元を大将が判定し戦功を詮議すること)が行われ、陣の北に位置する阿津賀志山の経ケ岡(きょうがおか)にさらされた。
【解説1】
「石那坂の戦い」の日時は、阿津賀志山の戦いと時間的に並列関係にあり、8日午前とした。しかし、その場所は未だ特定できていない。
【解説2】
藤原泰衡は、1889年4月30日に義経を殺害してから義経派を排除したので、義経派であった佐藤基治や伊賀良目高重との関係は、当然険悪だったと思われる。8日の合戦で、藤原本隊と別行動をとったのもその証なのだろうか。
【解説3】
石那坂の戦いで佐藤一門は滅んだとされるが、佐藤基治は後日帰されたと吾妻鏡に記され、その後も飯坂に所領を得ていたことが判明している。また、伊賀良目高重の子孫は同じ館に居住し続け、やがて尾形氏を称するようになり、室町期に岩谷下観音(いわやしたかんのん)を作らせている。
【解説4】
基治の二人の子は義経の身代りとなって死んでおり、頼朝は基治に対して格別の思いがあったといわれる。さらに、基治が伊佐一族にみすみす生け捕られたとは考えにくく、自分の領地や一族を守るためには何でもした時代でもあり、頼朝と基治は、お互い通じあっていたとしてもおかしくない。
討ち取られて首がさらされたはずの佐藤基治は、なぜ生きていたのでしょう?
東山道阿津賀志山付近で800年前にタイムスリップしながら、皆さんも推測してみませんか。
「石那坂の戦い」の日時は、阿津賀志山の戦いと時間的に並列関係にあり、8日午前とした。しかし、その場所は未だ特定できていない。
【解説2】
藤原泰衡は、1889年4月30日に義経を殺害してから義経派を排除したので、義経派であった佐藤基治や伊賀良目高重との関係は、当然険悪だったと思われる。8日の合戦で、藤原本隊と別行動をとったのもその証なのだろうか。
【解説3】
石那坂の戦いで佐藤一門は滅んだとされるが、佐藤基治は後日帰されたと吾妻鏡に記され、その後も飯坂に所領を得ていたことが判明している。また、伊賀良目高重の子孫は同じ館に居住し続け、やがて尾形氏を称するようになり、室町期に岩谷下観音(いわやしたかんのん)を作らせている。
【解説4】
基治の二人の子は義経の身代りとなって死んでおり、頼朝は基治に対して格別の思いがあったといわれる。さらに、基治が伊佐一族にみすみす生け捕られたとは考えにくく、自分の領地や一族を守るためには何でもした時代でもあり、頼朝と基治は、お互い通じあっていたとしてもおかしくない。
討ち取られて首がさらされたはずの佐藤基治は、なぜ生きていたのでしょう?
東山道阿津賀志山付近で800年前にタイムスリップしながら、皆さんも推測してみませんか。
<第3話> 石那坂砦(いしなざかとりで)の謎解きに挑戦
多くの歴史家が、石那坂砦の場所を探求しましたが未だ特定できていません。原点に戻って、古書吾妻鏡に記載されている多くのヒントをもとに、この謎解きに挑戦してみます。
第2話でも紹介した、石那坂砦に結び付く吾妻鏡の記述部は、
①石那坂砦では、8月8日に戦が始まり、同日中に武将は全て討ちとられて決着した
②伊佐(いさ)一族が荷車を引いて行けた
③砦には堀が掘られ、阿武隈川から水を引いていた
④佐藤一門の首長基治(もとはる)を始め、一門の名武将が入城していた
⑤伊達郡沢原が近くにあった
⑥石那坂の上にあった
さて、石那坂砦の解明につながるのか否か、それぞれ掘り下げてみよう。
①戦は8月8日早朝に始まり、遅くとも同日夕刻までに藤田宿へ戻ったことになる。戦闘時間が絞りきれず、距離を特定する材料に乏しい。
②荷車を引けるのは、5人の伊佐親子。さらに、戦歴に残らない下人も同伴した可能性は否定できず、距離や地質特定の材料につなげることが難しい。
③阿武隈川から堀まで水を引けるほど、川から距離は近かった。当時の阿武隈川は、大隈川(おおくまがわ)とも呼ばれており、平坦地で大きく蛇行し、福島市、伊達町、保原町(ほばらまち)、桑折町(こおりまち)での様相は、現在と全く違っていた。村人はこれを惜しみ、良く似た赤松を譲りうけ2代目の松とした。初代松の一部は、お堂内に保護されている。
第2話でも紹介した、石那坂砦に結び付く吾妻鏡の記述部は、
①石那坂砦では、8月8日に戦が始まり、同日中に武将は全て討ちとられて決着した
②伊佐(いさ)一族が荷車を引いて行けた
③砦には堀が掘られ、阿武隈川から水を引いていた
④佐藤一門の首長基治(もとはる)を始め、一門の名武将が入城していた
⑤伊達郡沢原が近くにあった
⑥石那坂の上にあった
さて、石那坂砦の解明につながるのか否か、それぞれ掘り下げてみよう。
①戦は8月8日早朝に始まり、遅くとも同日夕刻までに藤田宿へ戻ったことになる。戦闘時間が絞りきれず、距離を特定する材料に乏しい。
②荷車を引けるのは、5人の伊佐親子。さらに、戦歴に残らない下人も同伴した可能性は否定できず、距離や地質特定の材料につなげることが難しい。
③阿武隈川から堀まで水を引けるほど、川から距離は近かった。当時の阿武隈川は、大隈川(おおくまがわ)とも呼ばれており、平坦地で大きく蛇行し、福島市、伊達町、保原町(ほばらまち)、桑折町(こおりまち)での様相は、現在と全く違っていた。村人はこれを惜しみ、良く似た赤松を譲りうけ2代目の松とした。初代松の一部は、お堂内に保護されている。
④佐藤一門の惣領(そうりょう:一門の統率者で嫡子がなる)基治を始め、一門の武将が入城したほど要になる場所であった。藤原本隊が控える阿津賀志山要塞(あつかしやまようさい:国見町阿津賀志山から南東部の阿武隈川まで約4kmにわたって防塁を設け、川の水を引いて築いた要塞)の弱点を補強した砦なのではないか。
その弱点とは、からめて(迂回し背後に回る作戦)を受けることであり、標高600m級の山々が連なる西側より、東側の阿武隈川沿いを警戒したのだろう。この頃は干ばつ続きとされ、木の年輪調査でも、現在より気温が3度程高かったことが裏付けられている。
⑤伊達郡は、10世紀前半の律令再編の際に、「因達(いだて)」として信夫郡(しのぶぐん)から分割された地域である。当時のエリアは、阿武隈川西部が、伊達町、桑折町、国見町、福島市北西部。阿武隈川東部が、保原町、梁川町(やながわまち)、霊山町(りょうぜんまち)、月館町(つきたてまち)、川俣町(かわまたまち)、飯野町(いいのまち)である。「沢原」の地名は、当時の伊達郡内には実在しない。
旧阿武隈川は、伊達町、保原町、桑折町で大きくうねり、幾度となく氾濫して水害が絶えなかった。そこで、現水路のような直線的な姿に改修してきたのであり、もし「沢原」地区が河床になってしまったなら、地図上からも消えたはず。
糸口は、前後、上中下、東西南北、内外、辺、向、新、大小などが、近在の地名に付けられることも多く、なごりが残っていないか探ってみた。すると、頼朝軍が陣を置いた藤田宿から南東約2kmの現阿武隈川西岸域に、「北沢」と「前原」地区が隣接し存在している。偶然なのか否か、現在調査中である。
⑥福島県北地域で、今でも「石那坂」の地名が残っているのは、伊達市保原町富沢の「石名坂」と福島市平石の東北本線上り「石那坂トンネル」の2箇所である。前者は、写真のような奥深い山間部で、後者は伊達郡から遠く、両者とも候補から消え去る。
「石那坂」は改名されたのか、時代とともに消滅したのか。はたまた地名でなく隠語なのだろうか。「石那坂」とは、「石が多い坂」と「石が美しい坂」の二つの意味がある。
また、「坂の上」を歴史家たちは「坂の上部」と訳しているが、吾妻鏡の著者は「北」の意味でも用いており、「石那坂の北」とも考えられる。
加えて、古書「伊達正統世次考(だてせいとうせいじこう)」には、
『1189年冬、念西(ねんさい)は、頼朝から伊達郡を所領として賜り、91年冬までには地頭として、現茨城県西部の筑西市(ちくせいし)から移住し入部。念西は、伊達朝宗(あさむね)として伊達家初代当主となり、居城を保原町の高子が岡(たかこがおか)とした。北側は阿武隈川が流れ水を引き入れ、丘陵部には土塁が築かれ要害であった。』と記され、入部したてのよそ者が、これだけの大事業を短期に成し得たとは考え難い。
これらの材料から判断すると、石那坂砦は現在の高子が岡城跡に存在していたのではなかろうか。
「高子」は元来「孝子」と書く。石那坂砦に立てこもった佐藤一門の武将は、一族を守るために惣領を逃がし、残る武将は首をとられたという孝行な子たちなのである。この出来事が、地名の由来なのかもしれない。
さらに、高子が岡城跡から南西500mには高子沼があり、農業用ため池として利用されてきた。言い伝えでは、平安期から盛んに金が掘られ、後世の伊達政宗(まさむね)は、秀吉によりこの地を召し上げられた際、金鉱脈を隠すために水を引き入れて沼としたらしい。1962年に沼底の調査を行った際、精錬道具と金銀鉱石砕が発見され、伝えはあながち作り話でなかったと証明された。
「石那=美しい石=金」とすれば、吾妻鏡に記された「石那坂の上の陣」とは、「金山の北にある砦」とも解釈可能である。
ところで、石那坂砦はいったいどこにあったのでしょう?
皆さんも伊達路を散策しながら、800年前を想像してみませんか。