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Q1. 結城殿の武士団は、どのような組織ですか?

私の本家は下野国小山荘(しものつけのくに おやましょう=現栃木県小山市)で、惣領(そうりょう)は、兄で長男の小山朝政(ともまさ)です。父の政光は既に隠居し、惣領の立場を長男に譲っていますが、家父長権より親権が強いので、まだまだ小山の実権を握っています。本家には有能な郎党が数多くおります。さらに、農作業、家事、馬の世話などをする、奴隷(どれい)身分の「下人(げにん)」や「所従(しょじゅう)」は数え切れません。
「家の子」と呼ばれる分家は、私の他に、兄(次男)の長沼宗政(ながぬま むねまさ:長沼荘(現真岡市)長沼氏の祖)、弟の宇都宮頼綱(うつのみや よりつな)がおります。それぞれ、郎党と下人や所従を抱えて武士団を形成しています。ところで、弟は宇都宮氏の五代当主ですが、乳母が私の母であった縁で「猶子(ゆうし:苗字を変えずに他人の子と親子関係になること)」となり、兄弟になりました。弟の郎党には、紀清両党(きせいりょうとう)と呼ばれる益子正重(ましこ まさしげ)と芳賀高親(はが たかちか)がおり、宇都宮は東国最強の武士団と言われています。

三男の私は、まだ小さな武士団です。1183年、木曽義仲(きそ よしなか)に通じる常陸国(ひたちのくに:現茨城県)の志田義広(しだ よしひろ:源頼朝のおじ)が、足利氏を加えた2万の兵で鎌倉殿に反旗を翻した際、私の本家や郎党の保志泰三郎などの戦功で阻止したのです。その「論功行賞(ろんこうこうしょう)」として、私は結城の地頭に任ぜられ、本家から独立して苗字を結城にしました。
保志泰三郎は、もともと父の郎党だったのですが、私が元服したときから私に仕えています。岡田の善作は、父が山賊(さんぞく)から購入した下人の子で、小さい頃から遊び相手だったために譲って頂きました。下人や所従は、売買・譲渡・相続の対象になる身分なのです。

Q2. なぜ、武士は命をかけてまで、戦うのでしょうか?

私たちは、先祖から受け継いだ土地と新たに開拓した土地は、命より大切な位置付けなのです。ですから、自分の命をかけても土地を守り抜き、子孫に継承して行きます。ちなみに、この土地のことを「一所懸命(いっしょけんめい)の地」と言います。

Q3.鎌倉殿のもとに、なぜ多くの武士団が集結したのでしょうか?

鎌倉殿の御家人になりますと、「一つ目、朝廷や権力者に恐れることなく、実質的な土地の所有者であると認めて、不法な税や労役から解放して頂けます。二つ目、争いごとが置きた場合、公平・公正に吟味して頂けます。三つ目、戦で手柄を挙げれば、敵の領地を新恩給与(しんおんきゅうよ)として頂けます。」このように、坂東武者の悩みを解決し、望みもかなえて頂ける鎌倉殿のもとに、多くの兵(つわもの)どもが集結したのです。

Q4. 戦場に赴く兵士は、どのような方々でしょうか?

参戦する兵士は、戦時の際に従軍を強制されている、「伴類(ばんるい)」がほとんどです。その兵士は、騎馬兵と歩兵に大別できます。

騎馬兵は、武士団の一族と郎党からなる主力の兵士ですが、全体の一割程度にすぎません。郎党とは、下人や所従、時には農民や傭兵の中から、特に気が利いて力の強い者を取り立てた、一族の側近で伴類です。
歩兵は、下人や所従、農民、傭兵(ようへい)たちです。これらの者には、主人から食料と武具が支給されます。歩兵は、身分が低いので「雑兵(ぞうひょう)」とか、軽装で身軽に動き回るうえ、日常生活と同じく戦場でも裸足(はだし)が多いので、「足軽(あしがる)」とも言われます。 
そもそも下人や所従は、一族と郎党に仕えているので伴類です。戦いだけでなく、武具や兵糧の輸送、馬の口引きや馬の世話、料理などの仕事もさせられます。

農民は、領主の田畑で働いて報酬(=米)を得る傍ら、小規模開墾した私有地の「治田(はりた)」を耕したり、ニワトリ等の家畜の飼育や、山や川で収穫や狩猟をしながら暮らしています。ところが、東国は非常に治安が悪いので、自衛する必要があります。そこで、集落を形成し、武装もしています。保険として、武士から集落を警護してもらう代わりに、集落の収穫物を武士へ寄進し、事が起きれば武士に協力して参戦する契約を交わしています。そういう訳で、戦時の際には、村の規模に応じて従軍する人数が決まっているのです。他方、食料に困っている農民や、戦地で「分取り(ぶんどり)」という強奪目当ての農民は、本人の希望で志願します。

傭兵(ようへい)とは、臨時に雇われる兵です。近郷近在に戦の内容を触れ回ると、「山賊(さんぞく)」、「破落戸(ごろつき)」という住所不定無職の者、「辻冠者(つじかんじゃ)」という不良の輩(やから)、弁慶のような「乞食法師(こじきほうし)」という坊主のなりをした盗賊など、多くのならず者たちが、支給される食料や分取り目当てで集ってきます。
また、我が国は男女同権ですから、勇ましい女性は戦場に赴きます。木曽義仲の側室「巴御前(ともえごぜん)」や、弓の名手「板額御前(ばんがくごぜん)」は有名です。

Q5.庭先では武具の手入れをしていますが、武具について説明お願いします

では、騎馬兵の攻撃用武具・防御用武具、歩兵の攻撃用武具・防御用武具に分類し、それぞれの者から説明させましょう

①騎馬兵の攻撃用武具

騎馬兵が装備する攻撃用武具は、弓、太刀(たち)、腰刀(こしがたな)の3種です。

弓は神聖なものであるため、騎馬兵のみが所持できます。長さは2m少々で、木に竹を張り合わせたものです。弦(げん)を張る前から反らせており、その反りと反対方向に、数人で反らせて弦を張ります。ですから、至近距離での威力は凄まじく、飛距離は約300mにもなります。

弓射は騎馬兵の主力攻撃であり、日頃から馬上で手綱(たづな)を離して射る訓練をしています。射る際は、「ゆがけ」という鹿のなめし皮で作った手袋をはめます。
矢は、重さ50g、長さ70cmほどです。大まかまな構造は、弦が食い込む溝の「筈(はず)」、「羽根」、篠竹(しのたけ)で作られた棒部の「箆(の)」、先端の「矢尻(やじり)」です。
矢には多くの種類がありますが、戦場に持参するものは3種類です。
1)鏑矢(かぶらや)
ビュウと音が出るもので、合戦開始の合図に使います。
2)征矢(そや)
射合う時の矢です。矢尻は鉄製で、尖ったり扁平(へんぺい)な形をしています。羽根は三立羽(みたてば)で、大型鳥の羽を三枚矧(は)いで湾曲させたものです。そうすることで、矢がクルクル回転しながら飛ぶため、安定飛行するとともに飛距離が増します。征矢は、右旋回する「甲矢(はや)」と、左旋回する「乙矢(おとや)」があります
3)雁股矢(かりまたや)
武将を確実に射留める時だけ用いる矢です。雁股矢は四立羽(よたてば)で、鏑(かぶら)の先に雁股を付けています。矢尻には自分の生国と名を入れ、首が取れない場合でも、矢で致命傷を与えた証拠を残し、手柄が解るように工夫しています。ところで、征矢(そや)で武将を射留めても、流れ矢と見なされてしまい、手柄は認められないのですよ。
矢は、「箙(えびら)」という箱に入れ、右腰に負います。箙には、鏑矢を1本、征矢の甲矢と乙矢を11本づつ、雁股矢を1本、合計24本を1セットにして入れるのが基本です。戦場では、補給係りの歩兵が、何セットもの矢を用意しています。また、騎馬兵は弦をグルグル巻きにした「弦巻(つるまき)」を携帯し、弦が切れた場合は歩兵に修理させます。
太刀(たち)
太刀は、刃を下にして腰帯にぶら下げ携帯します。基本は、馬上から振り回す攻撃用武具のため、長さは1m以上で重心は手元にあり、反りが大きい作りです

太刀は接近戦用で、弓の次なる武器です。武将は大鎧(おおよろい)をまとっているので、斬りつける場所がありませんから、太刀での攻撃は、敵騎馬兵に打ちつけて落馬させたり、冑(かぶと)を落とす程度です。一方、防御としての用途もあり、騎乗中に歩兵から攻撃を受けた際は払いのけ、落馬した際は敵騎馬兵と対峙します
腰刀(こしがたな)
腰刀は、腰帯に差している短刀です。騎馬兵の最終兵器で、敵兵と取っ組み合いになった際に使います。太刀は打撃用でしたが、腰刀は突き刺したり、斬ったりして敵を殺傷させるものです。また、敵兵の首を落とすときにも用います。

馬は騎馬兵の移動手段ですが、混戦状態では、敵兵に馬ごと体当たりする「馬当て」という術を用いますので、攻撃用の武器とも言えます。

我が国の馬の体高(地面から肩の高さ)は、普通130cm前後のずんぐり体型ですが、名立たる武将が騎乗する名馬は150cmほどの大型馬です。後ろ脚(あし)が発達し、傾斜地の歩行を苦にしません。そして、前後の肢(あし:手足のこと)を片側ずつ左右交互に動かして速歩きするので上下動が非常に少なく、比較的温和な性格でもあり、とても騎乗しやすい馬です。
馬には、「はみ(馬の口にくわえさせ騎乗者の意思を伝えるもの)」「手綱(たづな)」「あぶみ(騎乗時に足を乗せるもの)」「鞍(くら:馬の背に置く騎乗具)」などを装着します。また、「鞦(しりがい)」という綺麗な総(ふさ)を垂らし、優美を競い合います。騎馬兵は、巾着状の「貫(つらぬき)」という、毛皮製の「浅沓(あさぐつ)」を履いて騎乗します

②騎馬兵の防御用武具

弓矢の威力は凄まじく、至近距離から射られれば人体深くまで突き刺さってしまいます。全身を守るために、防具は、強靭(きょうじん)なものへと発達しました。

「冑(かぶと)」は頭部を保護するもので、ヘルメットの部分である「鉢(はち)」と、後頭部や首を保護する「しころ」からなり、重量は約5kgです。鉢は、鉄製の板金を鋲(びょう)で留め、サビを防止するために黒漆(うるし)を塗ります。鋲は星とも言うので、鋲留めした冑は「星冑(ほしかぶと)」と呼ばれています。
また、額の「眉庇(まびさし)」の左右に並ぶ、一対の角(つの)状の金属の立物(たてもの)を「鍬形(くわがた)」と言って、装飾用に付けています。
実は、鉢(はち)の天辺には、5cmほどの穴が開いています。成人男性は、肩を越すぐらいまで伸ばした髪を一つにまとめており、これを「髻(もとどり)」と言います。戦で冑(かぶと)を被るときも、柔らかい烏帽子を被るため、冑から髻と烏帽子の出る小穴を設けており、戦闘ではこの部分を狙われることがあります
大鎧(おおよろい)
「鎧(よろい)」は、牛革を叩いて固めた「なめし皮」や、鉄板の「小札(こざね)」に小さな穴を開けて縫い合わせたもので、縫い目に隙間が生じないよう工夫しています。
大まかには、「胴、大袖(おおそで)、草摺(くさずり)」の3構造からなります。胴は、前後左側が一続きとなる平面状の一枚の板で、右胴部は別部品です。大袖は、左右の肩から垂らした楯状のもので、左袖は特に頑丈に作り、楯を持たない騎馬兵は敵矢をこの場所で弾き飛ばします。草摺は、大腿部(だいたいぶ)を守る腰から垂らしたものです。
鎧は20kgほどですが、馬上では鞍(くら)に全重量が掛かるため、体への負担はありません。しかし落馬すると、自分の肩に重量が掛かってくるうえ、大腿部(だいたいぶ)を守る草摺(くさずり)が歩行の邪魔となり、動きが鈍いところを集中攻撃されます。ですから、騎馬兵にとって、落馬は死を意味するのです。
小具足(こぐそく)
鎧冑(よろいかぶと)以外を「小具足」と言います。腕部を守る「籠手(こて)」、大腿部を守る「はい楯」、足の脛(すね)を守る「脛当(すねあて)」があります。また、最近登場したのが、顔面を保護する「半首(はつぶり)」、のどを保護する「のど輪」です

③歩兵の攻撃用武具

印地(いんじ)
「印地」とは投石のことで、歩兵の主力攻撃になります。戦場には、「印地打ち」という投石の熟達者も連れて行きます。石は、9cmほどの平たい丸石の縁を欠いて尖らせたもので、手首に結んだ布に包み、振り回して投げます。村では、護身や小動物を仕留めるために、子供の頃から印地の練習をしているのです。
長刀(ながなた)
「長刀」は「薙刀(なぎなた)」ともいい、敵騎馬兵に振り回し、馬の脚を払ったり、騎馬兵に打ちつけたりして、落馬させるための武具です。刃身は約30~60cmで反(そ)りがあり、柄(つか:持つための部分)は約90~180cmです。
太刀(たち)
長刀を持たない歩兵の武具で、近くの敵騎馬兵に振り回して打ちつけます。
腰刀(こしがたな)
腰刀は突き刺したり斬ったりするもので、歩兵は我が身を守ったり作業用に使用します。
熊手(くまで)(左)
「熊手」は、長い柄の先に、熊の手を模した鉄製の爪をつけたもので、騎馬兵を引っ掛けて落馬させます。
斧(おの)、鉞(まさかり)(右)
主に城郭や柵の破壊工作用ですが、騎馬兵への攻撃にも用います。

④歩兵の防御用武具

歩兵の防御用装備は、いたって軽装です。身分が低い雑兵ですが、戦場でも身だしなみとして烏帽子(えぼし)を必ず被ります。中には冑(かぶと)を被っている者もおりますが、戦場で拾ったものです。
腹巻(はらまき)
「腹巻」は、10kgほどの軽量な歩兵の鎧(よろい)です。胴体部は平面状の一枚の板で、右側で深く重ね合せて着用します。袖は「杏葉(ぎょうよう)」という鉄板を取り付け、大腿部(だいたいぶ)を守る草摺(くさずり)は、八間に分割し歩行し易くしています。最近、腹巻より簡素化した「腹当(はらあて)」という鎧(よろい)も登場し始めました。
小具足(こぐそく)
歩兵も、籠手(こて)、脛当(すねあて)、半首(はつぶり)などを着用します。





楯(たて)
楯は敵矢の攻撃を防ぐ最重要武具で、握り手がある移動式の「手楯(てだて:左下)」と、地面に何枚も並べて連ねる固定式の「垣楯(かいだて:右下)」があります。

Q6. 歩兵は、戦場でどのように戦うのでしょうか?

戦闘は騎馬兵同士で行いますから、歩兵の役目は、専ら主人である騎馬兵への手助けです。「楯(たて)を持ち、敵矢から防御する。投石をして、敵兵の攻撃を妨害する。敵騎馬兵を落馬させる。主人へ矢を補給する。主人の武具の修理や交換。主人が取った首の運搬。」などです。最近は、堀・土塁・柵・やぐらなどで防衛していることが多くなったため、破壊工作も重要な役目の一つです。また、食料である「兵糧(ひょうろう)」を現地調達するよう通告された戦では、協力しない村を焼き打ちし、強奪しなければいけません。
歩兵は、戦に貢献しようと、総大将からの褒美(ほうび)は一切ありませんから、自分の命をかけてまで戦いません。ですから、歩兵同士が戦うことはしませんし、主人が取っ組み合いになったとしても、ただ応援しているだけです。
騎馬兵は、歩兵をいくら殺傷しても手柄にならないので、歩兵は比較的安全です。しかし、負ければ「人取り」に合って敵の奴隷にされ、やがては売られてしまうので、戦況が不利になってくると真っ先に逃げ出します。

Q7. 戦場は、なぜ事前に決まっているのでしょうか?

いよいよ戦わざるを得なくなった時、両軍から「牒(ちょう)の使い」という軍使を交換し、「牒」という果たし状を取り交わします。そして、合戦場所と開戦日時を事前に決定するのです。

Q8. 主力となる騎馬兵の戦い方について、教えてください。

では、一般的な野戦での戦い方について、順序立てて説明しましょう。

① 開戦日時が決定してから戦までの間、スパイ行為によって敵の情報収集をします。

② 出陣すると、従来なら、騎馬兵は戦場を目指し「先陣争い」をします。しかし鎌倉殿は、奥州征伐を組織的に戦おうと、東山道本隊の先陣を、誠実で思いやりがある畠山殿に決めています。それでも抜け駆けする者は出てしまうでしょうね
先般の木曽義仲殿との戦では、「宇治川の先陣争い」が有名です。佐々木殿は、鎌倉殿から譲って頂いた名馬「生食(いけづき」で、先陣を切りました。

③ 大きな戦では、総大将は戦場の地形に合った陣形を選択し、武士団の配置を指示します。陣形とは、唐国(=中国)の兵法「八陣」のことです。
④ いよいよ開戦時刻になると、「氏文(うじぶみ)読み」という「言葉戦(ことばいくさ)」が始まります。両軍の先陣の武将が一騎駆けし、大声で「やあやあ我こそは・・・」と、家柄の主張、戦をする正当性、敵の不義、自軍の強さを互いにののしり合います。最後に、降伏か和睦(わぼく)を相手に迫ります。

⑤ 交渉が決裂すると、ビュウと音の出る「鏑矢(かぶらや)」を敵陣に打ち込みます。敵も打ち返してくると、いよいよ合戦開始です。これを「矢合わせ」と言いまして、これから正々堂々と戦をしようという儀式です。

⑥ すぐさま、士気を鼓舞(こぶ)するために、「鬨(とき)の声」を三度上げます。先陣の者どもが、突撃前に武器を右手で掲げながら「エイ、エイ」と掛け声をすると、激励の意味で後陣が「オー」と強く呼応します。敵軍も、鬨(とき)をあわせてきます。

⑦ 先陣では、いよいよ「楯突戦(たてついいくさ)」が始まります。両軍が距離を隔てて、楯の影から騎馬武者が空高く「遠弓(とおや)」を射掛け、歩兵は印地(いんじ)で攻撃します。そして、両軍は徐々に距離を縮めて行きます。
⑧ おじけづいた歩兵が逃走しだすと、楯の防御がなくなるので、騎馬武者も退却するしかありません。すると、陣は一気に崩れ、押し込まれて混戦状態になります。
⑨ こう着状態の時は、「馳組戦(はせくみいくさ)」になります。勇敢な騎馬武者が楯の前に進み出て、敵が楯の間から弓射するのを誘い出し、その機を狙って騎射する戦術です。「馬手射(めてしゃ)」という右方向への弓射が出来る者は、馬を右回りで輪を描いて乗り回す「輪乗り」をします。矢を連射出来る者は、前方射しながら敵に真っ直ぐ近づき、「押し捩り(もどり)」という後方射をしながら自陣に戻ってきます。
中には、「寄れや、組まん」と「一騎打ち」を求める武将もおります。それに応える者が歩み寄ると、一騎打ちが始まります。その場合、周りの者は加勢しないのが武士の儀礼です。まず、名乗り合ってから、互いが馬で駆け寄って、すれ違いざまに弓射します。狙い所はのど元です。やがて弓を使い切ると、どちらかが落馬するまで「太刀打ち戦(たちうちせん)」になります。落馬すると、馬ごと体当たりする「馬当て」で攻撃し、弱ったところで取っ組み合いの「組打戦(くみうちせん)」へ持ち込みます。最後は敵を乗り伏せ、利き腕を足で抑えつけてから、腰刀をのど元に突き刺します。
⑩ 他方、先陣を取れなかった武士団も、手柄を挙げようと動き出します。敵陣の側面や、「からめ手」という後方からの奇襲攻撃を始め、あちらこちらで戦闘が起こります。
混戦状態になると、一騎打ちの場面はほとんどなくなり、一族で協力し合う戦いになります。やがて、落馬兵が出始めますが、大鎧(おおよろい)は重いため、動きが鈍くなったところを目掛けて、弓射や馬当てで攻撃します。落馬兵も太刀を抜いて応戦しますが、徐々に体力を消耗し、手負いしてゆきます。最後は数人で抑えつけてから、冑(かぶと)を剥(は)ぎ、髻(もとどり)をつかんで頭を持ち上げ、のど元を斬ります
⑪ 討ち取った「首級(しゅきゅう=しるし)」は、歩兵の長刀に頭髪で縛り付け、個人を特定する名を記した「首札(くびふだ)」を付けて凱旋(がいせん)します。

Q9. 討ち取った首級は、どうするのでしょうか?

首級は泥や血で汚れていますから、汚れを落とし髪を整える「首化粧」をします。その後、総大将と軍監のもとで「首実験(くびじっけん)」が、陣などで行われます。そこでは、討ち取ったと主張する者に首を提出させ、場合によっては証人を伴い、御首級(みしるし)の身分・名・討ち取った経緯を検分した上で、軍監が記録してゆきます。後日、その記録をもとに論功行賞(ろんこうこうしょう)という褒美(ほうび)が決められます。
首実験が終了すると、酒宴が催されます。首を門外に置き、敵の方角に向かって勝鬨(かちどき)を一度だけ上げます。総大将は、力強く「エイ、エイ」と掛け声し、軍勢一同は武器を掲げて「オー」と呼応します。その後、首を取った者は、首に酒を飲ませてから、敵軍に返却したり、陣の北方にさらして捨てたりします。

「本日は、戦間近のお忙しい中、時間を頂きありがとうございます。御武運を・・・」

では最後に、結城家の行く末を紹介し、第5話を締めくくりましょう。
奥州合戦で、結城朝光は奥州藤原軍武将・金剛別当秀綱(こんごうべっとうひでつな)を討ち取り、白河、岩瀬、名取の奥州三郡を与えられます。
奥州合戦から400年後の1590年、結城朝光の孫が祖となった現福島県白河市を本拠地とする白河結城家(=白河氏)は、小田原征伐に参陣しなかったため、豊臣秀吉の「奥州仕置き」で改易(かいえき)され消滅します。
本家結城家は、小田原征伐に参陣し、何とか大名として生き残りに成功します。さらに、大大名徳川氏の所領に隣接する弱小大名が、存続を図る手段として選択したのが、秀吉の養子になっていた徳川家康の次男秀康(ひでやす)を、結城家の養子に迎えることでした
後の関ヶ原の戦いで、上杉軍を会津に留める働きをした秀康は、異例の50万石加封で越前(現福井県)に移封されます。やがて、結城姓から松平姓(越前松平家)に改めたため、本家結城の家名も消滅してしまいます。
しかし、結城の名は、完全に消滅していなかったのです。白河結城家の末えいたちが、秋田藩と仙台藩で、藩士として江戸時代を立派に生き抜いたのです。
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